遺言

ちらしのうら

然もなくば全力で走り続けろ!

明日は精神のアレです。アレ。

 

「ともだちほしーな~」

と漠然と思う時はいつも不思議に感じるのですが、「うまくやれた時もある」と評される私には、うまくやれた時などと言うものが果たして本当にあったのでしょうか?

偶然、たまたま、1人きりは寂しい人を見つけて、相互依存していただけなのではないですか?そして私は本当はともだちがほしいのではなく、そうした依存対象が欲しいだけではないのですか?

ここに居て、お願い。一緒にいよう。ひとりはさみしいから

と言って、言われて、2人きりで手を繋いで決して離れない。そういう関係が欲しいだけでは?

…そうかもしれない、と思います。そしてそれが嫌になるのも本当です。嫌になったら切り離して、切り離されて、またひとりが嫌になって依存する。その繰り返し。そういう重たい、幸せな時はとびきり幸せで、嫌になればとことん重荷でしかない関係が、当然であったので、いわゆるふつうの「ともだち」というものが分からない。適度に近くて遠い。その感覚が分からず、理解もできない。だから羨ましい、と、思います。どうしてそう上手くやれるのか、できるのか、大多数の人にとってそれが当然であるのか、どうしたら出来るのか…全く理解ができず、私には到底無理なように思えるから。

ある時その繰り返しが相手にとっても不幸であることを知りました。だからもう辞める。辞めた。「到底無理」な出来ないこと、であれば諦めがつきます。ひとりが寂しくても、そうしているのが誰にとっても一番いいのだから、そうするべきなんだ。そう思えばすべて諦められたし、怨むことも赦すこともなく、居られた。だからどうか揺すらないで欲しい。出来るかもしれないなんて限りなくゼロに近い可能性に縋って何かを傷つけるのはもう嫌だ。それによって私が傷つくことも。

 

なんて、脳内でぐるぐるしている言葉をそのまま吐き出してみた。自分は誰かにそう話しているのです。そしてそれに答えをくれるのも私。

解決はしないと思っていてもこうすることを止められない。いいえ「解決はしない」と言うのは全く間違っていて、本当は「解決」という行為を自分でしているのだと思います。「解決」というのは現状を打破することではありません。自分の中で納得のいく答えを見つけること、折り合いをつけることだと私は思います。一度「そうか」と思っても何度も何度も同じことについて考えを巡らせていると、そのうちに「こういう考え方もできる」と、新たな糸口が見つかって、それが仕合せで止められません。