遺言

ちらしのうら

いろいろなかたち

殴りながらも、ちゃんとあいしていると伝えることが、愛だと思うと答えると、先生は、それでは子供が混乱する、と言いました。それは、その通りだと、私は思います。混乱した愛着形成になるんですよね、なんかで読みました

そんな話をしていると父のことを思い出します。可愛がりながら酷いことを言う父を、私は心底憎んでいて、嫌っています。父も、その母も、妹も、そういういやらしさを持っています。撫でられたかったらどうすればいいか、わかるよね?といって、笑顔で捨てるような人でしたから、私は、思うように動くことこそ、愛されるための最重要事項なのだと思いました。そして、ある程度、媚を売ることも、だいじです。可愛がられるような人になること、そうすれば、あのひとたちは、きっと今度は私ではなく妹を虐めてくれるでしょう。きっとそれは間違ってるけど、私はもうこの仕打ちは耐えられませんでしたから、妹が、泣いているときは、安堵しました。だけどイラつきもしました。泣いて、あやされる妹の、狡賢さが、私は、だいきらいでした。

私は私をあいしたい、とは思いません。本当は今すぐゴミ箱に捨ててしまいたいです。でも、そうすると、だれかが悲しむらしいので、できません。打つことで、愛されたと喜ぶならば、私は打つことこそ、愛だと思います。だから、大切になんてできません。手酷くすればするほど、私は嬉しいんです。手酷くしているとき、私は、ちゃんと見てもらえて、傷が癒えるのが遅くなればなるほど、関心を持って貰えますから、それが嬉しくて、傷つけるんです。だいじにされてもうれしくありません。それは愛とは違うと思います。わたしはわたしに愛されたい、と思います。