遺言

ちらしのうら

自傷(と自分教)の話(2019/01)

私が自傷を初めてしたのは2008年

あの頃は更新停止していたリスカ画像やOD記録とかを、深夜にこっそり見るのが好きだった。病院には行ってなかったから、薬も憧れていた。どうなるんだろう、という、好奇心。

今ではもう見つからない。あのサイトたち

 

これを書いていたら、下書きにある夏頃に書いた自傷の話を思い出し、公開した。今見返し、そう言えば開いた傷を見られなかったなぁと…

今ではそういう傷も慣れてしまった。うわあ、とは、思う。この皮膚の下に詰まっている脂肪組織のグロさに驚く。傷を見ているときはほんの少し自分のものではない感覚がして、いまだに、それには慣れない。こんな汚いものが私の中にあることに、吐き気がする。けど、血は好き。臭いも味も嫌い。でも、あたたかいのがすき。この身に熱い血液が流れていることが嬉しい。だから瀉血は好きだ。痛いのも、グロテスクな傷口も、嫌いだから…

だけど、傷口の手当ては好きだ。傷つけている時に生を実感することはないが、毎日丁寧に傷口を寄せて、ガーゼを変えるたびに、治っていく傷を見ていると生きている。と、思う。傷を治し、そして生かしてくれる身体に、有難い。と、思う。

(基本的に私は、躰と心から成り立っていて、それは別々の意思を持っている。と、感じている。私とは、心であり、私が死のうとしても躰が生きようとすれば私は死なない。その逆に、躰が死ぬ時には私も死ぬ。一緒に生き、一緒に死んでくれる唯一無二の存在に、私は感謝をしている。)

昔は、自傷は純粋に罰であり、怒りや虚無感をぶつけていた。でも今は違う、と思う。傷つけているのだから暴力と言われたらその通りだけれど、暴力だから愛がないと言えばそれは違う。私は私を愛していて、大切にしているんだよ、という意味合いが強い…かな?言葉で愛をかたるのは簡単で、痛いものや苦しいものを共有してまで一緒にいると言ってくれるひとは少ない。それこそ、愛なのではないか

なーって、

 

生まれてきてから死ぬ時までずうっと一緒。こんな幸せなことは無いでしょう!そうです、私が教祖です。冗談はさておき、そろそろ本日のお手当てを。