遺言

ちらしのうら

ロールプイレング

一番優先すべき主人公か私なら、それを棄ててまで欲しい幸福とは一体全体誰の為、なのだろう。自己犠牲を美とするのは私ではなく、所詮観客の感想に過ぎない 果たしてそう思ってくれる観客がいるかといえば言わずもがな。最早望んでもいない ってゆーか、美しいなんて言葉で済まされるくらいなら、呪って憎んで恨まれるくらいじゃないと気が済まないし…

何故切るのか?何故不幸だと知っていてその道を選ぶのか、選ばざるを得ないのか、それは他ならない私が望んでいるから、ただその一言に尽きる。私は紛うことなきこの舞台の主役であり、同時にパトロンでもある。望むならその先が棘だろうが破滅だろうが旗を振って頑張れと言う、しか、ない。私が望むなら。

でもその本意を見極めるのも私の仕事であり。その「しかない」に、誰かの幸せの為などとつまらない自己犠牲が有るならばそれを教えなければならない。自傷も自殺も私の為でなくてはいけない。私は私に幸せになって欲しいんだ。幸せ、と呼んだだけの不幸であっても、そう望んだ結果なら甘んじて受け入れよう。だけど、そうじゃない、正真正銘不幸ならそこから守ってあげないといけない。優先すべきは、他人じゃない。何よりも大切なのは私。

例え私が「私を棄ててまで得たい」と言うならば、それでもいいんだ 私は私が幸せなら。

 

 

もう少ししたらまた暑くなって、そしたらこの曲を聴いて思い出せる、去年のような夏が来るんだろうなあ。去年の夏は、どう考えても幸せではなかった、けど、こうして思い出すたび、手離したくないと思う程には、大切なものだった。身体と私は繋がっているから、多分、辛かったのも本当だけど、消去されないのを見ると、失くしてはいけないもの、なんだろうな。本当に大事じゃなければ、身体が消すか、私が思い出さないと思う。在ったことを証明できる私が居ないのだからそれは初めから、無かった。だから、夏は、夏まではこうして何度も、今に重ねて思い出すだろう、けれどそれ以降は思い出さないと思う…その上、遠いんだ。お風呂の湯気みたいに、ミルクの膜みたいに、

 

何故だと思う?答えはとてもシンプルで、何度も言ってきたこと。私がね、ちゃんとそばにいてくれた時は、その時だけは、何もかも許せて…代わりに、浸透して来る異物で薄まった私は、飲むに耐えない。ぬるいビールみたいにね…まあ、私はぬるいビールも美味しくいただくんだけどもー