遺言

ちらしのうら

『死にきれぬ人らよ歌え』

大学が辛くて苦しいものだったかというと、実はそんなことはなくて、むしろ楽しかった。じゃあ何がそんなに辛かったのかというと、生きることが辛かった。苦しかった、うまく、みんなのように生きていけないことが辛くて苦しかった。みんなのように生きるのがよいとかただしいとかそういう話じゃなくて、私は、みんなのように生きたかったから、苦しかった

苦しいのをずっと我慢していた ずっと、生まれてからずっと苦しい。最初はみんなそうなんだと思っていた でも違うみたいだと気付いて、私だけが違うなら、それは無理矢理でも直すべきだと思った。誰かといるのは、叫びたくなるほど、泣き出しそうなのを必死で抑えつけるような苦痛で、「私にはできない」を受け入れられなかった私は、私を削ることでやっと、「上辺だけ普通」を手に入れて、その代わりに本心は疲れていった。それしかなかった。だから、それはもう仕方がない。でも、未来を変えたくても、こうするのをやめたくても、私は、どう生きたららくになれるのか、本当にわからない。

一人で生きていくのは難しくて、本当にひとりきりならそれはそれでなんとかやれた。でも私が生きていける世界は、人の中で、そうしたら途端に分からなくなる。辛くなる。ひとりで決めることができない。許すことも、認めることも。竦む足を鞭で打つ、それが、私が私としての責任を取れる唯一の手段で、だけどそれは「よくない」らしくて、

わからない。私の中には「未来」なんてものは、最初からなかった。いや、自分を知る前は有った。それは幸福な仮定の上に成り立つ自惚れで、夢物語でしかない。問題を知って、さあどうすればいいのかと考えたとき、途方に暮れた。それでも死ねるわけがなくて、未来を切り崩して今を生きていたら、そんなものを考える余裕がなくなった。脳みそも肝臓も腎臓も犠牲にして、それで、未来、なんてあまいかんがえを、どうしたら持てるというのか

薬に溺れて、いつか体を壊して死ぬんだ。それが、きっと私に「相応しい」「運命だった」「仕方がなかった」「これが正解だ」いくら言い訳をしても、取り戻すことなんてできない。探すのを、諦めるとは言えない。死ぬ覚悟がないから。だから今までみたいに足掻いてみっともなく足掻いてだらしなく生きて、それで、その先がどんなでも、「私は幸せだった」と言い張って、死ぬまで、生きる。