遺言

ちらしのうら

フォトフレームは捨てていく

心理師さんと2回目の面談でした。話したことは前回話した、自分も楽しんで生きてもいいのか、と、衝撃を受けたこと、についての深掘りをしたことです。

自分には家族のために生きて死ぬ義務がある、それはいつの間にか染み付いた考え方でした

学生生活から仕事、趣味の話になり、「趣味は大いに楽しんでください」のことでした

自分を表現できる趣味を持っていることはすごい、羨ましいとのことでした

でもそれはストレス解消にはならないもので、だけどそれがストレスが溜まっているか判断するのに使えるのではないか、とも

 

心理師さんは義務、のことを、自立と仰いましたけど、そんなポジティブなものではないと思うのです。あと、その趣味を断つこと、は、私が償うべき罪の、罰であるから、当然なんだと思います。幸せになる権利も、楽しむ権利もない、と思います。家族を看取ったら私はすぐに自殺します…それが唯一の贖罪

なんて、理想論を吐き捨ててしまいたくて、窒息しそうになった。普通のしあわせの中で生きていきたくて、だからお金を払ってこんなところに来ているというのに、それはない、だろう

私に求められていることが何なのか分からない。明確に指示されたなら、それを実行することが私の責任だと思う。幸せになれ、と言われたら、幸せだと思う義務がある。

 

諦めるのも、忘れることも難しい。忘れるためには、傷を治す必要がある。その為には諦めが必要で。傷が癒えていくにつれて、想いは過去になっていく。あれほど生々しく痛んで、苦しんで、つらかった愛おしい感情は思い出すことさえ難しい。指の間をすり抜ける砂を惜しいと思えば縋ることに必死になって、藻掻けば藻掻くほど傷は膿んで痛む。それはあの人を覚えている、忘れていないという実感を与えてくれる。あの人が与えてくれた痛みによく似ているから。でももういいかな、と、思った。あの人は先に行く。私は最早「あの人」をあいしてはいないのだろう、から